陸前高田市「奇跡の1本松」の今
飛行機が嫌いな自分のためにと奥さんが函館から新幹線に乗るツアーを申し込んでくれた。
3泊4日間の東北の旅(雨や雪の悪天候)。被災した三陸海岸や中尊寺が含まれていて、飛行機に乗らなくて済むので楽しみでした。
テレビでは見ていた陸前高田市の「奇跡の1本松」の実物を見ることができました。
赤丸が「奇跡の1本松」の位置。ここは名勝高田松原として白砂の海岸沿いに70000本の松林があり、散策路も整備され、海水浴場もある市民の憩いの場だったそうです。
あの震災の犠牲者は2000人近くと聞きました。
バスの中から見た「奇跡の1本松」(画像中央付近)
そばまで行ってみますと想像よりはるかに高さのある松の木でした。海側には防潮堤がほぼ完成しており、津波で破壊された施設が残されていました。
「奇跡の1本松」の根元、左側に見える建物は中学校で、津波で破壊された当時のまま残っておりました。松の木の根元、右側の人の大きさと比べると松の高さが想像できます。
三陸一帯の市街地は防潮壁が築かれ、海岸沿いでありながら、海を見ることはできません。
南三陸町をバスで通過する際に、悲劇の舞台となった南三陸町の災害対策本部の置かれていた防災庁舎のそばを通りました。とっさのことでバスの中からでしたが鉄骨だけになっている庁舎を撮ることができました。
防災庁舎の悲劇[編集](ウィキより引用)
2011年(平成23年)3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。当初の6mという津波予想のため、庁舎に留まり避難しなかったのが、犠牲者を大きくする一因となった。2階に危機管理課があり、町災害対策本部が置かれた。本庁舎では津波来襲の15時25分頃まで、防災無線放送で繰り返し住民に避難を62回に渡り呼びかけ続けた。本庁舎から発信された約30分間の防災無線の放送音声は全て録音されている。
危機管理課の女性職員は繰り返し避難を呼びかけ続けたが、波の高さについては「最大で6メートル」という放送が続き、最後の4回のみ「10メートル」と放送した。音声は、放送を続けようとする女性職員の声を遮るように「上へ上がって 未希ちゃん(女性職員の名前) 上がって」という周囲の制止の声を最後に放送が途切れている[5]。この女性職員は津波に飲まれ殉職した。 最期まで防災無線で避難を呼びかけ続けて犠牲になった女性職員の行動は、「多くの命を救った命懸けのアナウンス」と大きく評価され、埼玉県の公立学校で2012年の4月から使われる道徳の教材に掲載された。
当初、津波の高さの予想は最大で6メートルだったため、当時、行政庁舎で勤務していた130名のうち、53名がこの3階建の防災庁舎の屋上に避難した。しかし津波は予想の高さを超え、庁舎の屋上床上約2メートルの高さまで押し寄せた。その水圧と流れにより、屋上に避難していた人々の多くが津波に流され、犠牲になった。生還したのは、佐藤仁町長ら10名。彼らは庁舎の屋上中心に立っていた高さ5メートルのアンテナのポールや、屋上へ向かう鉄骨製階段の手すりにしがみついたことで生還することができた[6]。
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by ksway | 2019-11-23 11:32 | 出来事